設楽清和(NPO法人パーマカルチャーセンタージャパン/代表)

パーマカルチャーとは?

オーストラリア人のビル・モリソンとデヴィット・ホルムグレンが提唱し、人間にとっての恒久的持続可能な社会を作り出すためのデザイン体系として、今や世界各国で実践されている「パーマカルチャー」。農的側面から語られることの多いパーマカルチャーですが、本来的にはもっと広く「自然を教師として人間の行動を決めていく」実践学です。

たとえば、食べ物やエネルギー、水など、私たちの暮らしに必要なものがどのように関わっているのかを知り、より豊かな生命を育むためには何ができるのかを考えて、実行すること。競ったり争うことではなく、コミュニケーションを大切にし、知恵を出し合って問題を解決していくこと。生活や地域、経済や自治の在り方までもデザインし、実践していくのがパーマカルチャーなのです。

世界中で環境への関心が高まり、ライフスタイルの見直しがされている今、日本でも、パーマカルチャーは大きな注目を集めています。藤野の篠原地区に拠点を置く、NPO法人パーマカルチャーセンタージャパン(PCCJ)は、日本にパーマカルチャーを普及させるべく、2004年に設立されました。

なりゆきで始めたPCCJの立ち上げ

代表の設楽清和さんは、もともと農や環境に興味があり、アメリカの大学院で環境人類学を学んでいました。パーマカルチャーを知ったのは、その留学中だったそうです。

「日本の伝統的な暮らしと通じるものがある、これは面白いなと思いました。でもその頃は、日本でやりたいなんていうことまでは、まったく考えていませんでした」

しかし帰国後、日本でパーマカルチャーを普及させようと活動していた藤野在住のカナダ人女性と知り合ったことにより、事態は大きく動きます。設楽さんは実行委員会に入り、日本初の2週間のパーマカルチャーデザインコースを長野県で開催しました。

カナダ人女性が諸事情で帰国してしまったあと、設楽さんは“なりゆきで”藤野町役場やHRI(オムロンのグループ内シンクタンク)、日大教授・糸長浩司さんらと、PCCJを設立します。

「彼女が帰国してしまったときに“(引き継ぐのは)お前しかいないだろ”みたいな感じになって。もう完全に、流れで始めたんです。ただ、私は選択にあたっての“勘”が働くんです。“パーマカルチャーはこれから絶対必要になる”っていう感覚はあったので、それを動かすことについての違和感はまったくありませんでした。もともと人間と環境の関係性に興味があったので、その点はパーマカルチャーの考え方とも一致していたし、ある意味、性に合っていたんでしょうね。なりゆきで始めたのに、かれこれ20年近く続いています(笑)」

設楽さんが長年普及に努めた結果、デザインコースの卒業生は、約1000人にも及びます。各分野でパーマカルチャーの実践、普及を行ない、実績をあげる生徒も増え続けています。

“藤野で育ててきたパーマカルチャー”を伝える

じつは設楽さんは、今まで、藤野でパーマカルチャーについて話すことを意識的に避けてきたところがあるそうです。「藤野は、厚みのある歴史をもっているまちです。地域にあるものをいかに生かしていくかということがパーマカルチャーのひとつの方向性でもあるので、外からもってきたパーマカルチャーを押し付け、これが新しい生活の在り方だと話すことは憚られました」

しかし藤野は、芸術を好む人たちが自由に表現できるまちであり、新しいものに対して積極的に関わっていく気質もあります。最近の藤野のようす、藤野に移り住むPCCJの卒業生が増えていく状況を見て、その時期がきたかもしれない、と感じるようになりました。

「パーマカルチャー自体が、藤野のひとつの特徴になったのではないかと思えるようになりました。今後は、自分が“藤野で育ててきたパーマカルチャー”を伝えていくこともやっていきたいですね」

同じ考え方のもとで実践しても、人や土地が違えば、生まれるものも変わります。設楽さんがこの地でパーマカルチャーを実践し、わかったこと、感じたことがいったいどのようなものなのか。この先語られるであろう話が、今からとても楽しみです。